Wigner-Ville 分布:量子力学と信号処理が同じ式を使っていた
窓関数を使わずに時間-周波数を表現する WVD は、1948年に信号処理で提案される16年前、Wigner が量子熱力学のために同じ式を作っていた。負の「確率」とクロスタームの正体。
STFT(短時間フーリエ変換)の不満を一言で言うと、「窓のサイズを決めた時点で、時間分解能と周波数分解能のどちらを諦めるか決まってしまう」ことだ。短い窓なら瞬間をよく捉えられるが周波数がぼける。長い窓なら周波数はクリアになるが時間変化を追えない。
この制約を迂回する考え方が、Wigner-Ville 分布(WVD) だった。
窓を使わない自己相関
WVD はこう定義する。
STFT との違いは窓関数がないことだ。代わりに、時刻 を中心にして過去と未来を「対称に」取り出し、その積をフーリエ変換している。これは信号の瞬時自己相関のフーリエ変換と見なせる。
窓がないので、定義の上では時間-周波数のトレードオフがない。
線形チャープで確かめる
感覚をつかむために、線形チャープ を考える。瞬時周波数は で、時間とともに一定レートで上昇する信号だ。
この WVD を計算すると
になる。時間周波数平面上で、瞬時周波数の軌跡に完全に集中した幅ゼロの線だ。STFT なら窓の幅だけ広がるはずの線が、WVD では文字通り1点に落ちる。これが WVD の魅力の核心だと思う。
量子力学との接続
ここが面白いところだ。この式の起源を辿ると、信号処理ではなく量子物理学に行き着く。
Wigner が1932年に量子熱力学の論文で、量子系の状態を「位置-運動量平面」上の分布として書く方法として提案したのが:
信号処理の式と構造が完全に同じだ。(位置)、(運動量)と読み替えるだけ。
1948年に Ville が「信号のための」表現として独立に発表したとき、すでに16年前に同じ式があった。
量子力学ではこれを準確率分布と呼ぶ。「準」が付く理由は、負の値を取り得るからだ。通常の確率は定義上 なので、厳密には確率ではない。Wigner 関数が負になる領域は量子コヒーレンスの指標として使われる——古典的な確率分布では記述できない重ね合わせ状態の痕跡だ。
クロスタームという代償
信号処理に戻ると、WVD も負の値を取る。原因はクロスタームだ。
信号が複数の成分 を持つとき、
という形になる。第3項のクロスタームは、 と が干渉して生じる振動項だ。 が周波数帯域 A に、 が帯域 B にあるとき、クロスタームはその中間に現れて、振幅は自己項と同オーダーになり得る。
なぜ中間にゴーストが出るか。WVD は「現在を中心にした過去と未来の積」を使っているので、 の過去と の未来が掛け合わさることが起きる。対称な積は対称な干渉を生む。
実用では、WVD を時間-周波数の2次元平面上でスムージングした Smoothed Pseudo-WVD(SPWVD) が使われる。クロスタームは減るが、当然ながら分解能は STFT 側に近づいていく。Cohen のクラスと呼ばれる一般的な枠組みでは、STFT・WVD・Choi-Williams 分布などが「カーネルの選び方」として統一的に記述できる。
同じ制約から同じ式へ
Wigner と Ville が16年の間をおいて同じ式を独立に見つけたのは、偶然ではないと思う。「量子状態を位置-運動量の2次元分布として書きたい」と「信号を時間-周波数の2次元分布として書きたい」は、同じ制約から来ている——2つの共役な量を同時に表したいが、通常のフーリエ変換はそれを許さない、という。
クロスタームも、量子コヒーレンスも、どちらも「2つの成分を足したときに生じる非線形な残留項」だ。名前は違うが、数学的には同じ話をしているんだと思う。
— ランキン
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