色の幾何学:シュレーディンガーが100年前に残した宿題

色相・彩度・明度はなぜそう定義されるのか。シュレーディンガーが未完にしていた色知覚の数学的基礎が、非リーマン幾何学によってようやく完成した。


シュレーディンガーというと、まず猫を思い浮かべる人が多いだろう。でも彼は量子力学だけでなく、色知覚の数学的理論も残している。そしてその理論は、約100年にわたって「未完」のままだった。

何が未完だったのか

人間が色を知覚するとき、三種類の錐体細胞(赤・緑・青に対応)が反応する。だからすべての色は三次元空間の点として表せる。シュレーディンガーはこの「色空間」に距離構造(計量)を入れることで、色の見え方の違いを数学的に記述しようとした。

色相(Hue)・彩度(Saturation)・明度(Lightness)という三つの量も、彼の枠組みの中で定義される。ただし、これらは「中立軸(neutral axis)」——黒から白へと続くグレーの系列——に対する相対的な位置として定義されていた。

問題は、その中立軸自体が数学的に定義されていなかったことだ。「ここがグレーだ」という直感的な話はできるが、色空間の計量構造だけから中立軸を導く方法がなかった。

中立軸というのは、言ってしまえば色立体の「背骨」だよ。黒から白へ抜ける彩度ゼロのグレーの線で、色相・彩度・明度はすべてこの背骨を基準に測られる——明度は背骨に沿った位置、彩度は背骨からの距離、色相は背骨まわりの角度。HSV円柱で言えば、ちょうど真ん中の芯にあたる。

厄介なのは、この芯が「色立体の形の真ん中」とは一致しないことだ。人が使える色の集合(色域)は左右非対称に歪んでいるから、図形としての重心と、知覚的なグレーの軸はズレてしまう。だから『真ん中だからグレー』では芯を引けない。形の中心ではなく、計量——黒からの距離——から芯を定義しないといけない。ここがこの宿題の、いちばん固い核なんだと思う。

なぜリーマン幾何学では足りなかったのか

色空間の計量を記述する自然な枠組みはリーマン幾何学だ。各点に内積(二次形式)を入れて、曲がった空間での距離を測る。NeRFや測地線の話でもよく出てくる道具だな。

ただ、リーマン幾何学には制約がある。各点の「最も近い点」を滑らかに選ぶような操作は、リーマン枠組みの内部では一般に定義できない。中立軸の定義には「等明度面上で黒に最も近い色」という概念が必要で、これがリーマン的な計量だけでは扱いにくかった。

非リーマン幾何学での解法

ロスアラモス国立研究所のRoxana Bujackらのチームは、より一般的な非リーマン的枠組みを使ってこの問題を解いた。具体的には、中立軸を「各等明度面において黒に最も近い色の集合」として幾何学的に定義した。

この定義が機能すると、色相・彩度・明度という三量は色空間の計量構造から自然に導出される——つまり外から「こう定義しよう」と決める必要がなくなる。色の見え方に固有の幾何学がある、ということになる。

副産物として、ベゾルト・ブリュッケ効果(光の強さを変えると色相が変化して見える現象)も説明できる。リーマン的な「直線」ではなく、非リーマン空間での「最短経路(測地線)」を使うことで、この知覚のズレが自然に現れた。

位相は同じ、効くのは計量

ここで一度、色空間そのものの形を眺めておきたい。色を (L, M, S) の錐体応答や XYZ として並べると、色空間は三次元空間の部分集合になる。だから「近い色」「色が連続的に変わる」という話は、ふつうの位相(トポロジー)の言葉でそのまま言える。

ただ、位相が教えてくれるのは”何が近いか”までで、“どれだけ違うか”は教えてくれない。その『どれだけ』を測るのが計量だ。シュレーディンガーの宿題——中立軸をどう引くか——は、位相ではなく計量の側の問題なんだな。位相は素直なのに、計量がうるさい。だからこそ、計量の前提(リーマンか非リーマンか)を取り替えることが効いた、ということになる。

その位相が面白い顔を見せる場所もある。色相だよ。物理的な波長は、紫から赤まで一本の区間——ただの線——なのに、私たちが感じる色相はぐるりと閉じた円になっている。錐体応答の空間で純粋な波長を並べると馬蹄形(スペクトル軌跡)を描き、その両端を「紫の線(line of purples)」——赤と紫を混ぜた、スペクトルには無い実在の色——が糊づけして輪に閉じる。知覚が、物理の”線”を”円 S¹”に変えている、と言ってもいいかもしれない。

この円は、中立軸という背骨に通したビーズのようなものだ。だから軸が曲がれば円も付いていくし、計量が歪んで色相の基準角度が明度ごとに少しずつ回ると、上下の円どうしがねじれる。「同じ色相のはずなのに、明るさを変えると向きが違って見える」——これがさっき副産物として触れたベゾルト・ブリュッケ効果の正体で、円のねじれとして目に見える形になる。

ついでに言うと、色立体は閉じて有界——コンパクトだし、色相の円もコンパクトだ。色というのは、どこへ行っても縁の外にこぼれない”閉じた”世界なんだな。

何が面白いのか

計量を変えると「まっすぐ」の意味が変わる。それだけで、長年説明できなかった知覚現象が説明できた。

シュレーディンガーは色の問題を「三次元空間 + 計量」として定式化したが、どの計量かという選択が重要だった。リーマン的な仮定を外すだけで宿題が解けた——というのは少し皮肉な気もするし、数学の枠組み選びの大事さを改めて感じる話でもある。

ジョンズ・ホプキンスでの発表は2026年6月7日。もう少し詳しく読みたいなと思っている。

中立軸の話を触れるものを /play に置いた。色を「明度 × 色味」の断面で見て、色域のゆがみを動かすと、「使える色のド真ん中」とグレーの軸(中立軸)がズレていくのが見える。中立軸が”形の中心”では決まらない、というこの宿題のキモが、たぶん少し腑に落ちると思う。

同じ /play に、波長の一本線が紫で閉じて色相環 S¹ になる様子を、スライダーで連続的に曲げて見せるものも足した。そして、ここまでの話——中立軸・色相環・ねじれ——を一つの色立体にまとめて、ドラッグで三次元的に回せるビューアを tnks1407.com/color/ に置いた。明度ごとに色相が回る”ねじれ”を立体で見ると、ベゾルト・ブリュッケがどういうことか、文字で読むより早く伝わる気がする。

— ランキン


出典

数値・実験結果は著者らの報告に基づく。独立した再現・査読を経た結果かどうかは、論文本文を確認するのがよいと思う。

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